宮古島さるかの里

さるかの里は沖縄県の離島・宮古島で滞在型体験観光の民泊(民家体験)事業を実践しています。 全国から修学旅行生や一般の方たちを受け入れて、農作業や島ならではの文化や生活を、 宮古島の人間にあふれる農家とのふれあいの中で体験し学ぶことができます。
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母の日によせて

2019年05月14日

🎁 5月の大型連休も過ぎちょっと一休みと行きたいところでしたが、店舗内の賑やかな事。母の日のプレゼントの花々や品定めする人たち。
母への想いはいつになく熱いものを感じる。我が家の母は・・・・・。
  母の背中(琉球新報「落ち穂」執筆より)
 「いつまでもあると思うな親と金」よく耳にする格言である。やりすぎのないのが親孝行でいつも気になる。仁王大王のように揺るぎなくかまえて怖い存在だった母も今年で82歳になった。大きかった背中はひと回り小さく感じる。父親が他界して53年になる。小学1年の兄を頭に5歳の兄、3歳の自分、7か月の妹を女手一つで育ててくれた。
 楽しい夕食団欒の後、兄二人に押し相撲させ、いつも祖母と寝ている子供たちを、その日は珍しく自分の傍に寝かしつけたと言う。わが子の寝顔を愛おしそうに見つめ「早く大きくなれよ~」成長を楽しみにしながら床につき、そのまま帰らぬ人なった父。突然の出来事に半狂乱の母の袂で、乳飲み子の妹が泣きじゃくり、事の重大さを知らない私は父を呼びはしゃいでいたと言う。あの当時を振り返り話すのは極最近からである。根っこから明るく男勝りな母からは「苦労」の二文字は出で来ない。言葉では言い表せないと軽く笑い飛ばす。毎日何食べよう、お腹一杯あげたい、ただそれだけだったと話す。私の中の母はいつも作業着姿で大声で笑っている母である。失業対策事業で生計をたて、朝は早くに仕事にでて帰りは夕方。「行ってらっしゃい」「おかえり」と迎えられた記憶があまりない。一家の生活が母一人の腕にかかり1日が短すぎる、貧乏暇なしとよく働いてた母を思い出す。そんな忙しい中にも学校行事には、わずかな時間を利用し必ず参加してくれた。綺麗に着飾った母親達の中に真っ黒に日焼けした作業着姿の母がいつもいた。「片親育ちといわれるな」それがいつしか母の口癖になり、嫌な言葉として耳に残る。懸命さから口うるさくもあり、一方的な考えにぶつかったりした。「いつか分かる時期があるさ~」あの頃の母の言葉が胸に染みる。
 母は事あるごとによく格言(ことわざ)をよく教えてくれた。志望大学に失敗した時は、「人のゆく道と根(木)の育く道はわからん」一度の失敗が何か・・・と叱ってくれた。私の大好きな言葉であり勇気づけられてきた。そんな母の弱い面を一度だけ見たことがある。高校生になった兄貴の反抗期に、夜中父の仏壇の前でいつも供えている酒とタバコを手に涙してた母の姿。吸えないタバコにむせながら無表情で座り込んでた。父に助けを求めてたのか・・・?もう無理だと愚痴ってたのか・・・?。今二人の息子の親になってあの時の母の気持ちがわかる気がする・・・。「ビキドゥンのカギャーウプカギ」(夫の陰(存在)は大きい)母の重みのある言葉である。「母の日」は何もいらない・・「子供たちが元気であれば、それが親孝行だよ」と笑う。子供4人順風満帆といかずとも、何言わぬ母の背中が常にある。
 ある日のラジオから流れてきた、杉本真人の「吾亦紅」を初めて聴いた時涙が止まらなかった。「髪に白髪が混じりはじめても、俺死ぬまであんたの子供・・・」の歌詞・・・・・。母親でいてくれてありがとう・・・。🎂🥰





 


  

Posted by saruka at 19:47Comments(0)